旦過市場の形成過程

旦過市場の形成過程

旦過市場は自然発生的な商店の集まりから広がりを見せたという過程がある。その過程を、時代別に見ていきましょう。
創生期・大正時代

1)市場の発生の様子

旦過市場の発生は大正2、3年頃で、場所は住宅地や商店のある魚町、鳥町、紺屋町などのちょうどはずれ、神獄川の川岸の湿地帯で、茸の生えているような空き地だった。旦過橋を渡ると宗玄寺近辺、馬借の辺りにはまだ商店があったが、その間に穴があいたように空き地になっていたと思われる。
この空き地に玄界灘のいわしを積んだ伝馬舟が神獄川をのぼって川岸に舟をつけ、網ごと川岸に荷を揚げ、空き地で売買を始めたのである。
小倉の町と他の町をつなぐ幹線道沿いに近いこと、周囲に古くから住宅街があることなどから繁栄し、次第にその数も増え、自然に近郊各地から野菜や果物をもった商人や田川方面からは薪を積んでくる者などが集まり、市場的な賑わいを見せ始めた。

2)市場の拡大の様子

当時の市場は現在の市場の南端部分に主にあった。そのうち商人の数が増えるようになると、川下から一の組、二の組、三の組と市屋のような仮設の店舗が建てられるようになり、現在の市場の原型を作り始める。中央市場や新旦過の辺りは荷を積んできた場所のつなぎ場や、一時的な倉庫として活用されてきたが、ほとんど広々とした空き地で、小倉の祭の折りなどには軽業や化け屋敷、首抜け、相撲などの掛け小屋ができ、賑わっていた。
日常的に人が集まるようになると、河面には広島から回航してきたという”かき船”が浮かび、冬にはかき、夏はうなぎや鮮魚料理のぼんぼりをかかげて情緒ただよう姿を見せて、小倉の庶民の台所として、また時にはハレの場として賑わいを見せるようになっていた。

3)昭和初期~戦前の旦過市場の様子

1.店舗が神獄川にはみだした経緯

昭和に入り、旦過の市場は卸と小売りの両方の機能をもった市場として成長した。しかし、この頃から小倉湾の潮が徐々に退き始め、神獄川の水深がかなり浅くなって漁船も船底がつかえるようになってきたため、昭和12~13年(1937~1938年)頃、旦過の主な卸売りは当時の魚町四丁目にあった魚市場の方に移されていった。
その後も魚青果を主体とした最寄り品の小売り市場は拡大し、ついに神獄川の河川上にせりだす形で木造の小売店鋪が建てられるまでになったのである。

2.太平洋戦争の影響による市場店舗の強制撤去

旦過の市場はその後も小倉市民に新鮮な生鮮食料品が安く、手軽に手に入る所として親しまれるが、戦争が激しくなってきた昭和18年(1943年)、強制疎開を命じられてこの木造建築物は強制撤去させられてしまう。市場の通りより東側の商店は営業を続けたが、そのうち統制経済下におかれて市場本らの機能をはたせなくなっていった。

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